全体が見えそうで見えなくて不安になる
酒を飲んでいるので軽くひとつ。
日本人1億2,000万の人がいて、1億2,000万の人生がある以上、1億2,000万の真実があるのは当然でしょう。
その日本人同士や日本に来ている外国の人たちが集まって日本を形成しているのですから、その数百倍の絆が折り合って日本社会というものを形成しているわけです。
ネット業界は、その絆をより良くしていきましょう、より太くして、日本社会を構成している日本人やその他皆さんの、その同士の絆を深めていくことで、日本社会をもっと豊かに、素晴らしいものにしていこうね、と考えるべきなんだろうと思います。それは基幹系だろうがアプリレベルだろうが、入り口も出口も人です。すべてのデジタルも数字も、人がこの社会で暮らしていく営みをより良くしていくために存在する。そんなことは、当たり前のように理解されているのだと思っていました。
また、人が知ることのできる範囲なんてちっぽけなものです。爺であれ私であれおよそ人間が生まれて育って以降、環境や経験や学んだことから裏付けられる知識の類と、そこから人間の想像力の範囲で類推できるところぐらいまでしか見通すことなどそもそもできない。専門でないことはコンテクストを読み解くことができず、学ばないことは知識の価値を判断できず、物事を考えない人は見知ったところですらもぼやけて見えてしまう。
無理であり無駄なことだと知りながらも、少しでも広く世界を見よう、知識を得よう、それを自分が生きる社会に役立てようと考えて行動することが生きるということなのだし、また同時に人はパンのみに生くるに非ず、享楽に耽ったりその性質ゆえに非合理も内在するのが人間なのであります。だからこそ、社会は不確定に満ちており、予測できず、面白いわけです。然るべき努力を払ってこそ到達する高みがあり、ある高みは時間とともに埋没し、知識は資産だと思っていたものがいつの間にか負債に変わっている。
全てを知ろうとするのは土台、無理なことです。将来を見通そうなんて、ちょっと考えられません。
それでも、リスクを取る人が偉いのだ、リスクを取る人を育てよう、ということを言う人がいます。もちろん、賛成も反対もできません。なぜなら、人は言われてリスクを取るのではなく、そも神に与えられた状況や才覚、性格という所与のもとで、この現実社会で生きていくことそのものがリスクだからです。人に言われて取るリスクは支配であるし、リスクなく暮らしていくことなど実際には無理です。
だけれども、リスクはゼロであって欲しいと願う。原発然り、治安然り。人が人と暮らす以上、危険性はゼロにはなりえない。そんなことは、分かっているはずなんだけどね。
一口にリスクといっても、その可能性を吟味するのは他人事であって、例えば日本は治安が良いよといってもリスクは小さいだけでゼロではない。そして、実際に殺された人がいたとして、彼にとってはリスク評論がどうであるかとは無関係に、リスクが現実化して殺されて取り返しのつかないことになるわけです。
すべては相似形であって、高齢出産でダウン症の子供が生まれるぞというクアトロテストで出てくるリスクも、出てきた瞬間まではそんなにはっきり分からない。交通事故然り、お受験然り。みんな、もっと不安定の中でリスクを抱えて生きていることを知っておかないといけないと思うんだけどね。どの分野がどこに対してどのくらいのリスクがあるものなのか、分からないことのほうが危険なのに、分かっているリスクをことさらに心配してゼロにしろというほうが、本来はおかしい。心理的には良く理解できるんですけれども。
最近いろんな統計や未来予測の仕事をかじってみて、つとに感じたのは「知ることができた問題」っていうのは本当にごく一握りのことなんだということです。メディア、報道の意味はそこにあるし、そういうリスク情報を見たくない、見ないようにしているという行動にも心理上合理的なのだということが良く分かる。
でも知性と意識という恵みを与えられて生きる私たちが、目を開けず耳を塞いで安全を信じて生きていくことが、如何に悩ましいことであるのか、とはいえまた同時に人間の知性とやらも決して万能ではない、むしろ万能から程遠いことも理解しなければならないという話なんですよね。
それでも、知る努力は払う必要があると思うのです。この肉体が活動を止めるその日まで。